戦後日本のシチュー事情

学校給食に白いシチュー

戦前の昭和の時代にホワイトソースが一般家庭に普及したといってもそれはやはり一部の家庭に限られました。

ホワイトソースの「白いシチュー」が日本全国に普及したのは何といっても戦後の学校給食を通じてでしょう。もっとも「白いシチュー」とはいっても、学校給食に登場したものには本格的なホワイトソースではなく、小麦粉でとろみをつけただけというようなものも少なくありませんでした。

うちで食べるのも白いシチュー

昭和30年代テレビの料理番組のはじまりのころ、まだまだ食糧難の記憶も鮮明で、ローストビーフやステーキは夢のまた夢でした。そのころ家庭で作るシチューは、4人分としてせいぜい150〜200g程度の肉と、後は玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、コショー以外の香辛料はローリエ(月桂樹の葉)がぼつぼつ知られ始めたという状態でした。伝統的な日本の汁もの、けんちん汁や薩摩汁の中身が少々バタくさくなったものといってよいでしょう。

そしてその特徴はホワイトソースの白、「シチュー」といったら「白っぽい汁もの」。このホワイトソースをどうしたら上手に作れるかがテレビ番組の講師達の説明にも不可欠でした。

写真:ホワイトシチュー

ハウス食品のシチューミクスの登場で、シチューが家庭料理として定着

その後、1966年(昭和41年)ハウス食品の顆粒状(発売当初は粉末状)のルウ、シチューミクスの発売によって、誰もが家庭で簡単においしく「白いシチュー」を作れるようになったのです。そして西欧の料理書にはない「ホワイトシチュー」「クリームシチュー」の語が定着、家庭料理の定番の一つとなりました。

ハウスシチューミクス開発ものがたり

きっかけは「給食で食べた白いシチューのルウを作りたい」

「シチューミクス」の開発のきっかけは、担当者が昔給食で食べた「白いシチュー」、あのシチューのルウを作りたいという気持ちでした。そしていろいろ資料を調べると、アイルランドにアイリッシュシチューという伝統的な白いシチューがあることがわかったのです。ですから発売当初のパッケージには小さく「IRISH STEW 欧風煮込み料理」の文字が入っていました。

そして「ごはんのおかずになるシチューを」

もう一つ担当者が考えたことは、ごはんのおかずになるシチュー、毎日食卓に違和感なく登場させられるシチューということでした。今となっては当たり前のことのようですが、当時としてはかなり新しい発想だったといえましょう。

当時まだ珍しかった店頭試食販売で紹介

発売当初は、スーパーなどの店内で実際に試食していただきましたが、当時はまだまだなじみのない料理で、はじめのうちはなかなか試食皿を受け取ってもらえず、「シチューって何?」「白いのは白味噌?」「粕汁なの?」といった、今では信じられないような質問も少なくなかったそうです。でも試食していただけば「おいしい!」と好評、ファンはどんどんふえていきました。

ルウの登場でレストランの茶色いシチューも、家庭で

ハウス食品が最初に発売したシチューミクスは「白いシチュー」にくわえ、ビーフシチューのための「茶色いシチュー」のルウもあり、どちらもお好みで家庭で手作りできるようになり、現在に至っています。

page top