シチューのある暮らしは、あたたかい。
そんな等身大の「シチューのじかん」をあなたに。
情緒あふれるエッセイやインタビューを掲載しています。
無性に、シチューを食べたくなるときがある。舌にまったりと乗るやさしい味が恋しくて仕方がない。そういうとき、クリームコロッケを食べてみたり、クリーム系のパスタを食べてみたりするのだけれど、あと一歩のところで何かが足りない。やっぱり、シチューを食べたいときはシチューを食べなければ。わたしが欲しているシチューは、お店では食べられない。シチューを食べたいとき、わたしは家の、キッチンの、ルウを使った手作りの味を求めているのだ。
わたしには、まだこれといった「自分のシチュー」がない。祖母が作ってくれたシチューと、母が作ってくれたシチューを思い出しながらキッチンに立つ。
祖母のシチューは、保育園の給食を作る仕事をしていたとは思えないほどたいへん大雑把だった。大きく切られた玉ねぎ、分厚い輪切りのにんじん、煮込まれすぎてすっかり溶けかけているじゃがいも、くたくたのブロッコリー、一口よりも大きいぶつ切りの鶏むね肉。箱に書いてある目安よりたっぷり入れたじゃがいもがほとんど煮溶けるから、冷えるとおたまにぼってりと吸い付くように固くなり、味がとても濃かった。小学校高学年まで祖父母と一緒に住んでいたわたしは、祖母の目を盗んでこっそり牛乳を足してのばして温めた。祖父はお味噌汁のお碗に炊飯器のご飯を盛り、カレーライスのように上からシチューをかけて、おおきなスプーンですくって食べた。総入れ歯の祖父は、柔らかく煮込まれたシチューを、顎を大きく動かしてしみじみ美味しそうに食べた。わたしもそれを真似してカレー皿にご飯を盛り、その上からシチューをかけた。見た目が真っ白くなってしまうので、お洒落にしたくて黒胡椒を挽いた。これが、とてもしっくりと美味しいのだった。シチューとごはんが口の中で一緒になるとき、恍惚のおいしさだった。
母のシチューは、分量通りに作るのでとても美味しかった。小さめに切られた玉ねぎ、いちょう切りのにんじん、すこし大きめに切られたほくほくのじゃがいも、一口大の鶏もも肉(ベビーほたての日もあった)。ブロッコリーは別茹でにして、こりっと硬いのをあとから入れていた。たまに生クリームを入れる日もあって、そうするとぐんと味が深くなった。母のシチューはさらりとしているのにこっくりと深く、お手本のように美味しかった。わたしは母が二日目のシチューで作ってくれるドリアが好きだった。シチューにごはんを入れて混ぜ、チーズを乗せてこんがり焼き、庭のパセリを刻んで乗せたものだ。香ばしいチーズの焦げ目と、ボリュームのあるシチューごはん。半分くらい食べたら辛い調味料をかけて食べるのも好きだった。トースターに全員分のグラタン皿は入りきらないから、二回に分けて焼いた。いつも先に食べ始めるのはわたしと弟で、母はキッチンが一通り落ち着いてから食べた。ひとくちをふうふう冷ましながらおそるおそる頬張る、あの熱々なのがたまらなく美味しかった。
わたしは腕まくりをしてまな板の前に立った。玉ねぎを大きく切り、にんじんを分厚い輪切りにし、レシピよりもじゃがいもを二個多く用意して、小さめに切った。これは祖母のやりかた。わたしは切り終えたにんじんとじゃがいもを電子レンジですっかり加熱した。これはわたしのやりかた。祖母はきっと大鍋でぐらぐらと煮ていたのだろうけれど、短い時間でできるならそのほうがいい。鶏もも肉を一口大に切り、ブロッコリーは別の鍋で硬めに茹でておく。これは母のやりかた。
鍋に油を引き、玉ねぎ、鶏もも肉を菜箸で炒める。たちまち(これからシチューを作るんだ!)という玉ねぎのいい香りがしてとてもうれしい。水を入れ、あらかじめ加熱しておいたじゃがいもとにんじんを加えて煮込む。既にじゃがいもが溶け始めて、ルウを入れていないのに白く濁ってくる。いま、鍋の中で祖母のシチューと母のシチューが混ざっている。あくを取り、箱からルウを取り出してパックの上から四つに割る。
この、ルウを割るときの、もく、もく、という手ごたえがとても好きだった。祖母とキッチンに並ぶときも、母とキッチンに並ぶときも、ルウを割って入れるのはわたしがやりたがった。鍋にルウを入れると牛乳を加え、菜箸をおたまに持ち替えてざっくりと切るようにかき混ぜる。ルウが溶けるとすぐにもったりとしてきておたまが重くなる。ぐるり、とおたまを回すたびにシチューのいい香りがキッチンから家じゅうを満たす。味見をして、牛乳をすこし足す。牛乳を多めに入れるのも、わたしのやりかた。祖母も母もわたしも、シチューでいちばんおいしい具はじゃがいもだと信じているから、シチューの主役はいつだってとろとろほくほくのじゃがいもだ。
わたしには、まだこれといった「自分のシチュー」がない、とさっき言ったけれど、こうやって作ってみると、祖母のシチューの好きなところと母のシチューの好きなところを取り入れながら、しっかりと自分のこだわりを持っているような気がしてくる。出来上がったシチューは紛れもなく「わたしのシチュー」だ。
お椀によそったごはんにシチューをかけて、黒胡椒をたっぷりかけた。おおきなスプーンで頬張ると、祖父母の家の食卓を思い出した。わたしや弟が貼ったシールの跡のついたテーブル、黄緑色のカーテン、花柄のこたつ毛布。手を伸ばせば猫の「トラ」が寝ていて、テレビでは相撲が流れていた。祖父はいつもにこにこして、祖母はいつもせかせかしていた。祖父も祖母ももういない。けれど、お椀によそったごはんにシチューをかけて食べると、その日の食卓に戻ったようなきもちになる。チーズを買ってきたから、明日はドリアにして食べよう。
わたしには、どうしてもシチューを食べたくなる日がある。シチューを食べたいとき、わたしが求めているのは、かつてのわたしを育ててくれた食卓なのかもれない。
くどうれいん
作家。岩手県盛岡市在住。著書にエッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)、『コーヒーにミルクを入れるような愛』(講談社)、歌集『水中で口笛』(左右社)、児童書『プンスカジャム』(福音館書店)など。初の中編小説『氷柱の声』(講談社)で第165回芥川賞候補に。
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