戦前日本のシチュー事情(1)

  • 戦前日本のシチュー事情(1)
  • 戦前日本のシチュー事情(2)

明治時代の中ごろからレストランメニューとして定着。

日本のシチューの歴史について、まとまった記録があるわけではないので、はっきりしたことはわかりませんが、シチューとシチューに関わる記事などさまざまな断片的な記録から判断すると、西洋料理を提供するレストランには、明治の初期からプロの料理人達が綿々と受け継いできた本格的な洋食メニューとしての「ビーフシチュー」があり、明治時代の中ごろにはすでに、シチューはレストランのメニューとして定着しているようです。

文明開化の気運にのって、異国の料理に果敢に挑戦したプロ達の世界では、ビーフに限らずさまざまな具材を使った、大部分は赤ワインやトマト系調味料を用いた、「茶色い」シチューを作る技術が必須でした。そして、家庭の台所ではまず手に触れることすらない牛の舌や尾、その他のモツ類、羊の肉、兎の肉や野鳥といった素材のシチューを賞味する、勇気のある客達がこの歴史を支えてきたというわけです。

年代 日本シチュー史
明治4年(1871年) 東京・九段の洋食店南海亭のメニューの引き札(ちらし)に「シチウ(牛、鳥うまに)二匁五文五厘」とある。
日本ではじめてキャベツ、たまねぎ、アスパラガスを栽培。
榎本武揚、牛乳店北辰社を東京・飯田橋で開業。その後明治33(1900)年には牛乳営業取締規則が内務省令により定められてガラスの牛乳瓶が普及。
明治6年(1873年) 牛やとりを原料としたソップ(スープ)が市販され、栄養食材(注1)として日本の社会に受け入れられる。
注1
栄養食材とは
それまでの日本人の食卓が、たんぱく質としての魚介はあっても基本的には粗食で、低カロリーであったのに対して、スープであれ、あるいはシチューであれ、いわゆる滋養のある料理を日本人が口にするようになったのはすべて明治中頃以降と考えてよいようである。——昭和19年に刊行された石井研堂著「明治事物起原」の復刻版(ちくま学芸文庫)による。
明治12年(1879年) 全国でにんじん大増産。
明治17年(1884年) 12月に山形で開業した西洋料理店「ちとせ」のメニューに「兎のシチー」。そばが1銭5厘からだった当時、75銭と高価。
明治18〜19年
(1885〜1886年)
八丁堀北島町にあった「松の家」が時事新報に「松の家洋食上等献立」と銘打って毎日の献立を広告。139回中シチウ関係60回登場。
アイルシチウ(アイリッシュシチュー)3、 小牛シチウ12、コカモシチウ(小鴨シチュー)1、 魚ヒチウ4、シギ(鴫)スチウ2、ターンスチウ(タンシチュー)5、チキンスチウ7、 ハト(鳩)シチウ2、ビーフスチウ3、ヘヤア(兎)シチウ2 等々。
明治23年(1890年) 輸入小麦を製粉したものをメリケン粉、日本従来のものをうどん粉と区別するようになる。
明治34年(1901年) 海軍舞鶴鎮守府の初代長官東郷平八郎が、イギリス留学中に食べたじゃがいもと肉のシチューをなつかしんで、部下に肉とじゃがいもの料理を作るように命じる。これが「肉じゃが」のはじめといわれている。
明治36年(1903年) 明治の財界の重鎮渋澤栄一の長女で、法学者穂積陳重の妻歌子が記した日記に、娘に手伝わせて“スタッフチケン(チキン)”とシチウをこしらえ、「いと味よくできたり」という記述がある。
明治37年(1904年) 軍艦における兵隊の食事の記事に、昼食に「煮込み(牛肉、馬鈴薯、玉ねぎ)」、夕食に「煮込み(注2)(牛肉、さといも)」など。
注2
煮込みとは
集団に対する食事提供という意味で学校給食と性格が共通する軍隊食も煮込み料理には熱心で、特に英国海軍との交流が緊密だった海軍はシチューやカレーに関心が深かったようである。
明治40年(1907年) 青森県旅客待合所販売品一覧にシチウ20銭。ちなみにビーフステーキ15銭、紅茶5銭。
アイリッシュコプラー種のじゃがいもが北海道で「男爵芋」として普及しはじめる。

page top